コラム:ストラヴィンスキーの人生を変えた2人の天才
イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)といえば、三大バレエ音楽ともいわれる《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。
彼のバレエ音楽はセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)との出会いがなければ誕生しなかった。ディアギレフはクロード・ドビュッシー(1862-1918)に「石をも踊らせる恐ろしいが魅力的な男」と言わせるほど天才的なロシアの興行師である。すぐれた才能を惹きつける独特のカリスマ性を備えたおり、彼が創設した「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」ではストラヴィンスキーをはじめ、ドビュッシー、セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1653)などの作曲家がバレエ音楽を、パブロ・ピカソ(1881-1973)やアンリ・マティス(1869-1954)などの画家が舞台装置や衣装を手がけている。こういった名だたる芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という新しい芸術スタイルを確立した。
そんなディアギレフがストラヴィンスキーを知るきっかけとなったのはズィロティの演奏会。そこで演奏されたストラヴィンスキーの作品に才能を感じ、1909年にパリで上演されるバレエ《レ・シルフィード》のための管弦楽編曲、続けて1910年のパリのオペラ座におけるバレエ・リュスの公演のための《火の鳥》の作曲を依頼した。それ以来、二人の交友関係はディアギレフの逝去に至るまで20年間続き、この間作曲されたものはストラヴィンスキーの全バレエ音楽の3分の2にも及ぶ。
もう一人、ストラヴィンスキーに影響を与えた人物がいる。ロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)だ。自伝の中で度々称賛したり、そのバレエ音楽を管弦楽編曲し再演したりしていることから、彼がいかにチャイコフスキーを敬愛していたかがうかがえる。
チャイコフスキーは、バレエ音楽に対する周囲の評価を一変させた作曲家である。1880年代まで、バレエ音楽は二流作曲家が作曲する劣ったジャンルだと思われており、あまり重要な作曲分野とは認められていなかった。しかし、チャイコフスキーはそんなバレエ音楽に可能性を見いだし、批判に臆せず変化に富んだ大胆な作品を生み出すことで、バレエ音楽の芸術的価値を押し上げたのだ。
ディアギレフとチャイコフスキーの影響を受けながら、ストラヴィンスキーは多くのバレエ音楽を生み出した。とはいえ、彼のバレエ音楽が、最初から多くの人々に認められていたかといわれると、そうではなかった。例えば、《ペトルーシュカ》のウィーン初演に向けたリハーサルの際には、オーケストラ団員から稽古をボイコットされたり失礼な言葉を吐かれたりしたという。しかし彼は、そうした周囲の批判に屈するような作曲家ではなかった。《ペトルーシュカ》の約3年後に、今度はそれをはるかに上回るほどの衝撃作である《春の祭典》を世に問うたのがその証拠だ。そのあまりに斬新な音楽は、初演の際に音楽が聴こえないくらい激しい喧騒を巻き起こしたという。
今回の定期演奏会の最後を締めくくるストラヴィンスキーのバレエ音楽《カルタ遊び》(1936)。カルタとはトランプのことで、ダンサーをトランプのカードに見立てて、ポーカー(5枚の手札の組み合わせでカードの強さを競うゲーム)の3回勝負の様子を描いている。ディアギレフの死後、バレエ音楽の作曲から距離を置いていたストラヴィンスキーが、8年ぶりに手がけた作品である。そこで繰り広げられるポーカーの戦いがどのようなものかを想像しつつ、ディアギレフ亡き後にストラヴィンスキーがたどり着いた境地を存分に味わいたい。
文責 山西彩恵子(ピアノ専攻三回生)
参考文献
・ロベール・ショアン『ストラヴィンスキー 』白水社、1969年
・イーゴリ・ストラヴィンスキー『私の人生の年代記――ストラヴィンスキー自伝』未來社、2013年
・シェング・スヘイエン『ディアギレフ――芸術に捧げた生涯』みすず書房、2012年
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