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コラム:初期トーキー時代の映画音楽の世界

レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ (1872-1958)は、⻄洋芸術⾳楽だけでなく、映画⾳楽の分野においても功績を残している。例えば、今回演奏される《トマス・タリスの主題による幻想曲》は、のちに映画『マスター・アンド・コマンダー』(2003)や『パッション』(2004)に使われることになる。さらに、1940年には彼⾃⾝が映画『潜⽔艦轟沈す』のために作曲している。ヴォーン・ウィリアムズが後世の映画⾳楽作曲家たちへ及ぼした影響は⼤きく、特に映画『猿の惑星』(1968)や映画『スタートレック』(1979)などで知られる映画⾳楽の巨匠、ジェリー・ゴールドスミス(1929-2004)にはその色が濃い。     では、ヴォーン・ウィリアムズが生きていた時代の映画音楽はどのようなものだったのだろうか。初期トーキー映画音楽の世界を少し覗いてみよう。     1927年に世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(注)が公開されることで映画⾳楽の歴史は始まったが、映像と⾳楽を同期させるという⼿法を確⽴させたのは主にマックス・スタイナー(1888-1971)、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)、アルフレッド・ニューマン(1900-1970)という3⼈の映画⾳楽の作曲家たちだ。そのうちスタイナーとコルンゴルトは、ともにオーストリアに⽣まれ、⻄洋芸術⾳楽の伝統的な作曲技法をウィーンで専⾨的に習得した上で、アメリカへ渡りハリウッドに所属した。そういった背景もあり、結果としてハリウッド映画の音楽に西洋芸術音楽の技法が数多く持ち込まれることとなったのである。     例えばスタイナーは、リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)が⾃⾝の楽劇の中で⽤いた「ライトモティーフ」という技法を、映画『キングコング』(1933)で初めて映画⾳楽に持ち込んだ。「モティーフ」とは、メロディーやリズムを構成する音楽の最小単位を意味するが、「ライトモティーフ」とはドラマの中である⼈物、場⾯、想念などを象徴するために用いられるモティーフのことである。ヴァーグナーは、同じモティーフを何度も繰り返し用いることで、それに特別な意味を与えていったのである。     スタイナーの⼿法を『キングコング』を例として具体的に⾒てい...

コラム:メンデルスゾーンのヨーロッパ旅行から読み解くユダヤ人差別

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  フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ( 1809-1847 )は、ロマン派の時代に活躍したドイツ系ユダヤ人作曲家である。彼が《交響曲第 4 番「イタリア」》( 1833 年)の作曲に取り組み始めたのは、父の勧めで行ったヨーロッパ教養旅行がきっかけであるが、それは、彼が 20 歳の時にベルリンで《マタイ受難曲》( 1727 年)の再演をし、大成功を収めてから数年間に渡って敢行されたものであった。以降、ヨーロッパ各地で成功を収める傍ら、ユダヤ人であることを理由に不当な評価を受ける事にもなった。ここでは、成功と、出来事、不当な評価に分けて、時系列順にメンデルスゾーンの教養旅行を振り返ってみよう。 このように、ユダヤ人であることが原因で何度も不当な評価を受けたメンデルスゾーンは、その度に傷付き、失望し、差別と決別することを強く願った。彼自身、有名なユダヤ人哲学者であった父方の祖父モーゼス・メンデルスゾーン( 1729 ~ 1786 )を尊敬していたため、ユダヤ人である事には誇りを持っていたが、それによって彼の音楽が否定されることには屈辱を感じていた。その結果、慣れ親しんだベルリンに見切りをつけ、家族と離れて外の世界に音楽を求めていったのだ。 教養旅行中、イタリアで合唱やオーケストラを指揮した際には、激しく混沌としたイタリア人気質にはあまり馴染めなかったとされるが、輝く太陽、暖かい気候などといったイタリアの素晴らしい自然や、人々の楽しく愉快な生活はメンデルスゾーンの創作心をくすぐり、先に構想を練り始めていた《交響曲第 3 番「スコットランド」》の着想が思い出せないほどであったという。《交響曲第 4 番「イタリア」》の中には、そんなイタリアの明るい雰囲気がたくさんのモチーフとなって生かされているが、それは若き作曲家が外の世界に求めた音楽そのものであったのではないだろうか。   文責:原田美砂(声楽専攻二回生)

コラム:F.メンデルスゾーン作曲《交響曲第4番「イタリア」》とその名盤 第三回(全三回)

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クラシック音楽には聴いておくべき「名盤」がある。メンデルスゾーンの《交響曲第 4 番「イタリア」》はいわゆる有名曲の一つで、演奏・録音される機会が比較的多いことから音源の種類も多く、特にトスカニーニ盤を筆頭に、イタリア人指揮者らの音源に名盤と呼ばれるものが多い。つまりイタリア人指揮者達の名刺代わりの一曲とも言えるが、そうした音源は語り尽くされているので、ここでは極めて私的なチョイスにより音源を紹介する。   3. 沼尻竜典( 1964- )&日本センチュリー交響楽団 (録音: 2012 年) 沼尻竜典は 1990 年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して以来、国内外のオーケストラや歌劇場の要職を歴任しており、 2020 年 10 月現在、びわ湖ホール芸術監督、トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア音楽監督の地位にある。この音源が収録された時期は、日本センチュリー交響楽団の首席客演指揮者の任にあった。 演奏は極めてオーソドックスなものである。故に、カエターニ盤の様に一部の楽器が目立ったり、ファイ盤の様に強烈なアクセントを用いたり、極端に速いテンポ等を採用したりすることはない。オーケストラ全体の調和がとれた、正攻法な演奏である。しかし、ただオーソドックスなだけでは名盤とは言えない。「オーソドックスな」という形容詞は、「新鮮味のない」という評価と表裏一体である。 この演奏は第一楽章からとにかく美しくしなやかだ。楽器間のバランスが絶妙にコントロールされた透明感ある響きと、オーケストラ全体が充実した音を出すことによって生まれる余裕ある迫力が両立している。こうした特徴は、高度なアンサンブル能力と楽団員個々の演奏レベルが高くなければ実現しえない。それらが高い集中力と共に全楽章を通して維持されており、指揮者とオーケストラが中庸の精神を持って楽曲に取り組んでいることがよく分かる。 第二、三楽章の主題の丁寧な歌い方、 pp( ピアニッシモ ) 等の弱音部分における音の充実度とニュアンスの多彩さによる音楽的表情の豊かさは、上記二盤にはない美点である。また第四楽章においては、標準的なテンポながらも、高いテンションと清澄さを維持しつつ、アンサンブルの綻びがないまま堂々と終わる様は圧巻である。 新たな解釈はないが、楽譜にある旋律やフレーズやオーケストラのアンサンブルを慎重に吟味し、...

コラム:F.メンデルスゾーン作曲《交響曲第4番「イタリア」》とその名盤 第二回(全三回)

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  クラシック音楽には聴いておくべき「名盤」がある。メンデルスゾーンの《交響曲第 4 番「イタリア」》はいわゆる有名曲の一つで、演奏・録音される機会が比較的多いことから音源の種類も多く、特にトスカニーニ盤を筆頭に、イタリア人指揮者らの音源に名盤と呼ばれるものが多い。つまりイタリア人指揮者達の名刺代わりの一曲とも言えるが、そうした音源は語り尽くされているので、ここでは極めて私的なチョイスにより音源を紹介する。 2. トーマス・ファイ( 1960- )&ハイデルベルク交響楽団(録音: 2007 年)   ファイは ザルツブルク・モーツァルテウム大学 等で指揮や古楽を学び 、 1987 年にシュリアバッハ室内管弦楽団を組織した後、 1993 年に規模を拡大してハイデルベルク交響楽団へと発展させた。日本では J ・ハイドン、サリエリ、モーツァルト、及びメンデルスゾーン等のレコーディング活動を通して知られ、気鋭の指揮者として話題になっていた。ところが、 2014 年に自宅で転倒し重傷を負って以降、残念ながら復帰の目途が立っていない。 このコンビの演奏は、常にピリオド・アプローチを採用しているのが特徴である。ピリオド・アプローチとは、作曲当時に使用されていた楽器や演奏習慣を批判的に検証して現代のオーケストラ演奏に反映させることだが、これをどこまで取り入れるかは指揮者や楽団、及び曲によって千差万別であって、その定義は曖昧である。ハイデルベルク交響楽団では、トランペット、ホルン、及びティンパニを古楽器に置き換え、弦楽器はノン・ヴィヴラート奏法(注 1 )で演奏している。 さて、本来この交響曲は演奏に差が出にくい曲である。スコアに記されている演奏への指示が少ない上に、両端楽章にある弦楽器や木管楽器パートに現れる難所のテンポを無理のないように設定し、アンサンブルを整えようとすれば、自ずと大まかな演奏解釈の方向性が定まってくるからである。ところが、彼らは作品の印象を一新させた。 通常、第一楽章は弦楽器と木管楽器が主体で、そこに金管楽器とティンパニが華を添え、いかにも南国イタリア的な旅情を感じさせる音楽である。しかし彼らの場合、速いテンポを設定した上で、金管楽器とティンパニの音を(一部楽譜に手を加えて)突出させるのみならず、強いアクセントをつけて音をぶつけるように演奏する...

コラム:F.メンデルスゾーン作曲《交響曲第4番「イタリア」》とその名盤 第一回(全三回)

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クラシック音楽には聴いておくべき「名盤」がある。メンデルスゾーンの《交響曲第 4 番「イタリア」》はいわゆる有名曲の一つで、演奏・録音される機会が比較的多いことから音源の種類も多く、特にトスカニーニ盤を筆頭に、イタリア人指揮者らの音源に名盤と呼ばれるものが多い。つまりイタリア人指揮者達の名刺代わりの一曲とも言えるが、そうした音源は語り尽くされているので、ここでは極めて私的なチョイスにより音源を紹介する。 1. オレグ・カエターニ( 1956- )&ロベルト・シューマン・フィルハーモニー管弦楽団(録音: 1988 年)   カエターニは、 20 世紀を代表する名指揮者イーゴリ・マルケヴィチ( 1912-1983 )の子息で、主に欧州とオーストラリアを中心に指揮活動を行っている。日本では東京都交響楽団へ定期的に客演しており、特にショスタコーヴィチを中心とした演目で好評を博している。 さて、《交響曲第 4 番「イタリア」》には「 1833 ~ 34 年改訂稿」(以下、改訂稿)が存在しており、この音源ではその楽譜が使用されている。 1833 年 5 月 13 日にロンドンで行われた初演は大成功したにもかかわらず、その後メンデルスゾーンは改訂を決意する。しかし、契約上の都合で初演譜をすぐに作曲の依頼主(ロンドン・フィルハーモニック協会)から返却してもらうことが難しかった。そこで彼は記憶とメモを頼りに改訂作業を開始し、 1837 年 9 月までに第一楽章以外の改訂作業を終えた。ところが速筆であったにもかかわらず、第一楽章の改訂だけはついぞ完成させることができなかった。仕事に忙殺され、次第に関心が薄れていったのも大きな理由の一つであろう。ただ事情はそれだけではないようで、メンデルスゾーンは 1834 年 6 月 26 日付けの手紙の中で次のように語っている。 第 1 楽章だけは今回、書き起こさなかった。というのも、いったん手を付け始めたら、第 4 小節以降主題全体を変更することとなり、それに伴って、第 1 楽章全体を大きく変更せざるを得なくなると恐れるからだ。 改訂稿について手短に説明したが、詳細は音楽之友社から出版されているミニチュア・スコア『メンデルスゾーン交響曲第4番イ長調作品 90 』において、メンデルスゾーン研究の第一人者である 星野宏美 氏(立教大学教授/日本...

コラム:人物像から紐解くドビュッシーの音楽

クロード・ドビュッシー (1862-1918) は、 20 世紀の音楽に最も大きな影響を与えた作曲家の一人である。 では、彼は一体どのような人物だったのだろうか。人間性がうかがえるエピソードをいくつか紹介し、その人柄や内面から彼が生み出した音楽について考えてみよう。 ドビュッシーの性格を一言で表すとすれば、「独立志向」ということになるかもしれない。彼は自由であることに喜びを感じ、あらゆる法則や束縛から自らを解き放とうとしていたのである。ある時、彼はこう述べている。    作品がルールを生む。ルールは作品を生まない!   そのオリジナリティから当時の音楽界に新しい風を吹き込んだドビュッシーらしい発言である。   ドビュッシーは、斬新で珍しいものや異国の香りのするものなど、様々なものに関心を示した。自分の好きなものを目一杯詰め込んだ贅沢な暮らしを送るために浪費を惜しまない一面もあり、友人からお金を借りては返さなかったというエピソードが残っているほどである。その一方で、ラモーの作品や教会旋法など過去の音楽にも興味を持ち、フランスの伝統から繊細な感受性や貴族趣味を受け継いだ。多彩な魅力を持つ彼の音楽は、あらゆることへの興味を原点として、自由に発展して出来上がっていったのである。   また、完璧主義で、作品の創作に多くの時間を費やすという一面も持っていた。完成させた唯一のオペラである《ペレアスとメリザンド》( 1902 年)は、最初の構想から完成までに実に 9 年間もの年月をかけたし、代表的なピアノ曲である《版画》は、 1890 年代半ばごろ着手したにもかかわらず、完成したのは 1903 年だったという。 それにもかかわらず、彼が自分の作ったものに満足することは滅多になかった。自分の気に入らない作品は早く仕上げてしまいたいが、いい加減なことはしたくない ―― こうした葛藤にドビュッシーはよく苦しめられていたという。 1907 年に出版者の J. デュランに宛てた手紙には、彼の度を超えた完璧主義が顔をのぞかせている。   ただひとつだけ付け忘れたフラット記号のために、最悪の破局を想像してイライラしている哀れなあなたの友人のことを思ってくださってありがとう。   その一方で、ドビュッシーは絶妙なユーモアも持ち合わせていた。...

コラム:ストラヴィンスキーの人生を変えた2人の天才

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)といえば、三大バレエ音楽ともいわれる《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。 彼のバレエ音楽はセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)との出会いがなければ誕生しなかった。ディアギレフはクロード・ドビュッシー(1862-1918)に「石をも踊らせる恐ろしいが魅力的な男」と言わせるほど天才的なロシアの興行師である。すぐれた才能を惹きつける独特のカリスマ性を備えたおり、彼が創設した「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」ではストラヴィンスキーをはじめ、ドビュッシー、セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1653)などの作曲家がバレエ音楽を、パブロ・ピカソ(1881-1973)やアンリ・マティス(1869-1954)などの画家が舞台装置や衣装を手がけている。こういった名だたる芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という新しい芸術スタイルを確立した。 そんなディアギレフがストラヴィンスキーを知るきっかけとなったのはズィロティの演奏会。そこで演奏されたストラヴィンスキーの作品に才能を感じ、1909年にパリで上演されるバレエ《レ・シルフィード》のための管弦楽編曲、続けて1910年のパリのオペラ座におけるバレエ・リュスの公演のための《火の鳥》の作曲を依頼した。それ以来、二人の交友関係はディアギレフの逝去に至るまで20年間続き、この間作曲されたものはストラヴィンスキーの全バレエ音楽の3分の2にも及ぶ。 もう一人、ストラヴィンスキーに影響を与えた人物がいる。ロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)だ。自伝の中で度々称賛したり、そのバレエ音楽を管弦楽編曲し再演したりしていることから、彼がいかにチャイコフスキーを敬愛していたかがうかがえる。 チャイコフスキーは、バレエ音楽に対する周囲の評価を一変させた作曲家である。1880年代まで、バレエ音楽は二流作曲家が作曲する劣ったジャンルだと思われており、あまり重要な作曲分野とは認められていなかった。しかし、チャイコフスキーはそんなバレエ音楽に可能性を見いだし、批判に臆せず変化に富んだ大胆な作品を生み出すことで、バレエ音楽の芸術的価値を押し上げたのだ。 ディアギレフとチャイコフスキーの影響を受けながら、ストラヴィンスキーは多くのバ...

コラム:ストラヴィンスキーのルーツをたどる――マリインスキー劇場での思い出

  イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)はバレエ音楽をはじめとする劇音楽の魅力によって広く知られる作曲家です。 20世紀に活躍したロシア人作曲家の宿命として彼もまた、二つの世界大戦を機に選択を迫られました。亡命か政府への恭順、二択のうち前者を選んだ彼は安定した生活を求め、スイスを経てアメリカへと二度にわたる移住を経験することになります。今回の定期演奏会で取り上げられる《カルタ遊び》(1936)はアメリカ亡命の少し前にアメリカ・バレエ団から委嘱され、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演された作品です。亡命後のストラヴィンスキーは共に活動してきたロシア・バレエ団と道を異にして、新たな舞台作品の形を目指してゆきますが、ここでは原点に立ち返り、出生地ペテルブルクにあるマリインスキー劇場に目を向けてみましょう。そこには彼の劇音楽のルーツが眠っているからです。 ストラヴィンスキー家は、イーゴリの音楽の才能を培うにじゅうぶんな環境を備えていました。父フョードルはキエフ歌劇場で名をあげ、マリインスキー歌劇場で第一バス歌手を務めていました。オペラのスコアをはじめ数千冊を超える彼の蔵書は、幼い息子を魅了したようです。 ただ、イーゴリは存命中の父と決して折り合いが良くありませんでした。父の友人が来訪し演奏を楽しんでいても、離れた部屋で聴くのみだったほどです。それでも彼は間違いなく、イーゴリの音楽家としての道を開いた一人の人物といえるでしょう。マリインスキー歌劇場の練習見学の許可を得ることができたのは父のツテがあったからこそです。学生時代のイーゴリは毎日のように劇場に通い、そこで多くのことを吸収していきました。 それに加えて、初めての観劇もイーゴリに大きな影響を与えたのではないでしょうか。彼がマリインスキー歌劇場に初めて赴いたのは11歳のことでした。すでにピアノで演奏して親しんでいたミハイル・グリンカ(1804-1857)のオペラ《皇帝に捧げし命》(1835-1836)、そして何より初めて耳にする生のオーケストラは、少年にどれだけの感動をもたらしたことでしょう。その際に、指揮者を務めたピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)の姿を目にしたことも、彼は後年になって回顧しています。ロビーでも見かけたという先達の背中に、音楽家としての輝かしい自分の未来を見たの...